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任侠映画の終わり、終わりの言葉の不在

−−映画『首領を殺った男』『僕らはみんな生きている』をめぐって−−  [1994.5]

 

 映画『首領を殺った男』(1994)は興行的には芳しくなかったようだが、『いつかギラギラする日』(主演・萩原健一)、『修羅の伝説』『民暴の帝王』(ともに主演・小林旭)など、今一つ期待はずれにおわってきた近年の東映やくざ映画の中では出来はいいほうだったかもしれない。もともと、昔からやくざ映画というのはそれ自体で観て出来のいいというのはそんなに多くはない。時代がアウトローをもとめたときには、量産しても観客を動員できただけのことであろう。しかし、時代が変わってしまったために、大金をかけ豪華キャストで臨んでも、あまりうけなくなってしまった。そのことを製作サイドがいちばんよく知っている。だから、この映画は興行的に失敗すれば゛伝統ある゛東映やくざ路線の最後となるかもしれないという触れ込みで撮影されたのであった。とりあえずはこれで最後にはならなかったそうである。

 

 映画の内容も、そうした時代の変化を表現しようとしたものとなっている。監督も俳優もみな往年の全盛期に活躍してきた人々であり、映画の中の登場人物たちも確実に老いてしまったように、映画の舞台裏でもその老いを彼らは自覚していて、それを表現しようとしているのだ。だから、時代の変化や、それを十分に自覚しながら時代はずれの゛任侠゛としてまっとうしてしまう悲哀を描いているものとしては、けして悪くなかったと思う。

 

 ここで描かれているのは、あまりにも巨大化してしまった現代暴力団から疎外された任侠、極道のヒロイズムの呻きそのものである。かつて、昭和20年代から40年代までは、戦後の混乱の余燼の中で、人々は秩序の崩壊とアウトロー的な生き方に半身での共感やノスタルジーを覚えたのであろう。だが、昭和50年代にはいると、暴力組織自体が巨大な権力秩序に組み上げられてしまい、もはやアウトローの演ずる人間臭さと義理人情の世界が描けなくなっていった。一方でそれを象徴したのは、昭和40年代後半を席巻した『仁義なき戦い』シリーズのような実録路線であった。そこではドスと着流しの戦前派やくざの出る幕はなくなり、背広姿のアプレゲールやくざたちが、義理も人情も踏みにじって抗争を重ねてゆく様を「実録」として描いたのだった。それに続いて昭和50年代にはいると、『山口組三代目』『日本の首領』シリーズのように、巨大化した組織のドンを中心とした戦国武将もののような路線へと変質していった。『制覇』から『極道の妻たち』シリーズにつながっていく路線である。だが、1990年代にはいると、そうした路線でも観客を動員できなくなってきたわけである。

 

 この映画『首領を殺った男』では、かつて弟分であったほうが巨大組織の頂点に立つドンとなっていて、18年間服役してきたかつての兄貴分のほうが古典的な゛任侠゛を代表している。出所後は足を洗って静かに暮らそうと思っていたのに、結局はかつての弟分との対決に巻き込まれてしまう。18年の歳月を経て、雲の上にいながらなかなか表面に姿をあらわさない弟分と、社会の片隅でともかくも一度は弟分と会ったうえで引退したいと思っている兄貴分との、隔絶されてしまった世界のコントラストの描き方は、『ワンス・アポンナ・タイム・イン・アメリカ』を意識しているようでもある。そして、映画の中で古典的やくざ映画の時代が過ぎ去ってしまったことを淡々と噛みしめているといった手法がとられている。そのような20年間の時間感覚は、やくざ映画とともに生きてきた監督、俳優たちの特有のものだとしても、この20年間の変化は日本社会のあらゆるところで起きてきたことだから、感情移入できないこともない映画なのだ。

 

 とくに、1970年代前半をもって急激に退潮してあとになにも残さなかった左翼的学生運動というものとの重なり具合においてそうであろう。

 

 この20年間の日本人の体験は矛盾とアイロニーにあまりに恵まれすぎているために、それをうまく消化して表現することができないでいる。

 

 松竹映画『僕らはみんな生きている』(1993)は、東南アジアの某国に派遣された日本のサラリーマンたちがクーデターに巻き込まれて、命からがら空港にたどりつくまでを描いたものである。その過程で、日本のサラリーマンの悲哀と、悲哀に充ちながら無自覚にただ商品を売りまくるだけの日本企業が第三世界で演じている役割を映し出そうとしている。

 

 軍事政権の高官に取り入るためにスパイ活動までやっていて反乱軍側にとらえられてしまった、「社畜」の鑑のような山崎努演ずる男を解放してくれと哀願する真田広之演ずる若いサラリーマンが叫ぶように、日本人はただはたらくしか能がないからガムシャラに働き続けて、気がついたら世界一の経済大国になっていただけなのである。左翼運動とは何であったのか。社会とは、資本とは、国家権力とは、等々といった青少年時代の疑問を意識の正面におくことを避けて、ともかくも今日生きるということを懸命にやってきただけだ。ミーゼスやハイエクの「社会主義計算問題論争」といった社会主義を清算するに足る立派な論理が存在するということも知らずに、ただ、生きるために後ろめたさを押し隠したり小出しにしたりしながら働いてきた。それは所与の条件のもとで精神の均衡を保つための健全な方法ではある。だが、ただそうしてガムシャラに働いてきた、それだけのことが、いつのまにか経済大国の国民になってしまっていた。あまりにも運命の女神は団塊の世代に対して皮肉がきつすぎて、この皮肉(イロニー)を諧謔(ユーモア)として転換させる表現と、それを可能とする透徹した歴史−時代認識をいまだに生み出せずにいるのである。

 

 そうした表現が可能となるだけの言葉の成熟の方向がまったく見えてこない知的情況こそが、『僕らはみんな生きている』のラストシーンの呟きによく表れている。ゲリラに取り囲まれても、「メイド・イン・ジャパンとかいったことぐらいしか俺たちはいえない」、つまり技術の精度で自己をプレゼンーションするしか能がないという嘆きそのものなのである。

 

 そう、いまの日本で語られる物語は、「ワンス・アポンナ・イン・アメリカ」で始まるといった始まり方をするのではなく、「メイド・イン・ジャパン」で終わる終わり方をするしか言葉をもっていないのである。

 

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